昭和五十六年十一月二十六日 朝の御理解


御理解第五節 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、方便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此の方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」


 方便で願い捨て的な信心から、いちいち神様がそれに対するものを言うて下さる、返事をして下さる、理解づけてくださる。
いわゆる、お道の信心は、話を聞いて助かるというのは、そう言うことだと思うんです。話を聞いて助かるというても、色々、いわゆる様々であります。
 京都ですかね、猿沢の池と言うのがあります。その猿沢の池の辺で(ポンと手をたたく)とこう拍手を打つ。そうすとね、その鯉が餌を貰うかと思うて、さ-っと、こう集まって来るそうです。上の植木に止まっていた小鳥は、びっくりして飛んで逃げていくと言う事です。茶店の姉さんは、はい!というてお茶をだすと言う、そんな話を聞いた事があります。(手をたたく)と、これは同じなんです。でも鯉は餌をもらおうと思うて集まってくる。小鳥は鉄砲の音かと思うて逃げる。茶店のお姉さんは、はい、どうぞと言うてお茶をくんできた、とこういうのです。
話を聞いて助かる。その話も、ただ自分自信が助かると言うこと。一新一家が助かる事の為に、熱心にお話を、いわゆる拝聴するという。お話を入ただいて何かそこに悟るところがある。神の比礼を輝かし奉らん(神の比礼を讃えまつらん)という祈念詞の中にも最後にありますね。神の比礼を輝かし-。こういう素晴らしい信心、神様を世に現わさして貰おう、と言うふうに、いうならば一心発起する人もあります。ただ自分の苦しい事、難儀な事だけが、ただ話を聞くのであり拝聴するのである。同じ話である。皆さんが朝晩唱えておられる。はじめにあれは何か、祈念詞というのでしょうか、短い方の、神徳讃辞ですね。神の比礼を輝かしまつらん、事を願っておられるでしょう。だから、あなた方の場合はどうでしょうか。本当に神の御比礼を輝かしまつらん。輝かしまつらせて下さい、といったような願いには気がついていないのじゃないでしょうか。いや気が付いておってもそれに精進しておられんのじゃないでしょうか。まあ、とにかく私が先にまず、おかげを頂いて、で一生を終わって行くと言う人も、もう沢山あります。
私、今日しきりに、ここに文箱があります。この文箱の中の事を頂きますから、どういう事だろうかと思って、そこからこうやって見てみたんですが、見てみて「限りなく、合楽理念」と言う、私初めて見たような気がする。皆さん、ご覧になった事があるですか。これは確か、末永先生か何かが書いたっじゃない(そうじゃない、ここで出けたつの)。いわゆる限りなき合楽理念を、日々皆さんは勉強なさっておられる。又、それを実験実証に、いわゆるしていくと言うことは、神様を現しまっている事ではあります。けれど、限りなき合楽理念ですから、それが限りなく広がっていく、いうならば神の比礼を輝かしまつらん、というような願いがね、中に込められておらなければいけない。いや、勿体無いというふうに私は思うんですが、どうでしょうか。内容はまだ見てませんけども、確かに合楽理念は限りないものです。限りないものへの、撞念心を燃やす。限りないものへの精進、いわゆる限りなき精進。だから限りないおかげが受けられる信心と言うてもいいでしょ。此の方が祈るところ、天地金乃神と一心なり。一心に願えば、我心に神が御座るからおかげになるのじゃ、で止まってしまたんでは、私は金光様の御信心はたいした事ない。合楽理念もたいした事はない。そのための、天地日月の心にならにゃならん、と言うのが、ただ病気を治して頂きばっかり、家が繁盛する、店が繁盛するだけのための合楽理念出あったら、限りないものにならないです。
私はこのたび、行橋の支部大際におかげ頂いて、一番心に残りましたのは、私、いつあんなもの書いてあげたのかおぼえませんもん。事柄も書いてある。「一生一心」とあるんです。それが額になってあがっておりました。皆さんもご参拝された方は見た。そうたいした事はないようだけれども、此の一生一心。おそらくあちらの支部長であります堀内さん。とにかく限りない合楽理念を限りなく、いうならば広げていこうと言う事に、一生を捧げぬかれるだろうと思います。どうでしょうか、皆さん、いやそれは一生、金光様の信心を、と思うとる人もありましょう。それこそ死んだならよかたい。また買おうたい、おかげいただけん時にゃもちっと、おかげの頂ける、仏様か神様かござりゃせんじゃろか、と言うような人もありましょう。又、何かにぶつかって、信心をやめてしまうような人もまた、沢山あるでしょう。そういう中に例えばどう言うようなことがあっても、一生
一心を持って限りない合楽理念を広げていきたい、と言う念願のもとに信心が稽古されていく時にです、これなら堀内さんの場合、自分の難儀といったような事は、もう、かる-いものになってきたんですね。それは日々の願いの芯というのが、私にかかわりあいのある一切衆生の助かり、これが堀内さんの願いの芯なんです。
 どうでしょうか、皆さん。私にかかわってくる人たち、私に関係が出来る人たち、そういう人達の一切衆生がです、助かっていく事の為に一生、一心を貫くという。そりゃ悩みが、それこそ経済の悩み、人間関係様々な悩みが特に。ここから考えとっても、じゅつない事であろう、苦しい事であろうというような中にあって、そのじゅつない事であろう、苦しい事であろうが、かる-いものになってきた。大きな願いを立ててご覧なさい。難儀、苦労というものが、難儀、苦労にならないです。もう、こんくれなこつは当たり前、と言ったような、まあ、ぎめてというと色々ありましょうけれども、そういうものじゃないでしょうか。切々に大きな願いを立てると小さい苦労とか、修行とかいうけれども、もう全然問題じゃない事になってくる。折角言うなら、今までかってものをいうて聞かせるというような神様はなかったろが。と、ここへ参って来ると、神がいちいちものをいうて聞かせる。そんなら、ものをいうて聞かせてもらう、なら、ここに百名の人がお話を頂いとるけども、一人一様、どういうふうに頂くかという事です。今日の御理解はどげな御理解やったの、ち、帰りがけ聞かにゃんごた人もある。はあ-、今日のご理解のここが私の頂きどころと、思うて頂いていく人も、ただ自分がおかげを頂く事の為だけ。一歩も神の比礼をあらわまつろう、といったようなものに触れていかないなら、おしいですね。もったいですね。わたし、そういう願いの氏子の上に私は間違いのない神様の輝き、神様の比礼というものは輝いてくるし、またそれを現していける事が出けると思うんです。祈りを大きくしなきゃいけません。そして頂くご理解でも、それは百人百様ですけれどもね。限りない合楽理念の勉強をしているのですから、限りないおかげへのまあ、、挑戦ですね。限りないものへの憧念心を燃やし続けてそして自分の周辺にその輝きが、満ちて来るようなおかげを頂きたい。
昨日、お参りが多う御座いましたから、いつも八時三十分に立つのですかれども九時頃までここで、ご用をさせてもらいよったら、丁度、行橋の連中が十一名、お礼参拝をして参りました。それこそあれだけのお供えですから、トラックに乗せて来なならん。お供えだけが。それに今度の御大祭に皆が使わせて頂いたというこれだけ沢山な御信者が、協賛しとる。それをこう地区、地区に全部してありますが。お供えだけで百万円かかっとる。お祭りを仕えると言う事だけで、そりゃ、まあ、本当にとにかく、一人一人の支部員の人達がいかに熱心にあのお祭りに取り組んだかと言う事がわかります。昨日、私、中村先生から聞かせて頂いた話なんですけども、お弁当作るのに、例えば鶏の唐あげやら、かんてんやらというものは、もう明日すると大変だからというて、前の日に作ったんだそうです。したら堀内先生が言うてる事が、そういう真心のこもらない事じゃいけません。作り直して下さい。ち、いうたげな。百名分のお弁当は全部作り直した、と言う事です。もう、本当に真とか、真心とかこう言うけれども、ただ、真でしました。真心でございます、と言うただけでなくて、その真がね、止むに止まれんものになって表された時、初めてそれが真だというふに。これは行橋で頂いたご理解ですよね。真、私は真心です。私は真心で真です。というふうに言うても、それが止むにやまれんものになって、表れた時が初めて真である。真心である。昨日それこそ車を連ねてこちらへお礼参拝をして参ります前に、トラックガ走ってオリマシタ。そのトラックの後に大輝とあった。大きく輝くという、いうなら、車があったそうです。後からついていくみんなが、素晴らしい、有り難い、有り難い。本当に神様の声をそこに聞く思いでこちらまでおかげを頂いた、ち、言う。素晴らしいでしょう。偶然とは思えんでしょう。いうならば行橋地区の、いうなら支部の上にです、大きく輝く。それは大きく輝かそうと言う祈りがあって、大きく神様が輝いて下さるんですよ。私にかかわりあう一切衆生が助かって行く事のためのと言う祈りを持ったら、もう本当に誰が聞いてもまあ、いうなら相手につかみかかっていこうごたる心の状態の時もあったろう。それを、しかし有り難いで受けていっておる。借金の断わりというのはなかなか大変な事だけども、借金もそれはある意味では、そんなにつくらんでもよい借金を作ってしまっての借金です。例えば、支払いなら、支払いに対してでも、もう何ともいえん、いうなら実意をこめたものである。あるバ-の女将さんが、ご主人の飲み代を集金に来た。そしたら、もう私が絶対お支払いしますから待って下さい。今は払おうにも払いようがない。というて冷蔵庫を開けて見せた。ち、何にもはいっていなかった。そしたら、その、やはり感じたんでしょうね。もう、それこそいつでもよございます、と言うて帰られたという。例えば、借金の断わりでも、やはり実意をもって断わり、実意を表さなければ駄目ですよ。通じませんよ。そういう例えば、難儀を難儀と感じてない。ご主人が飲んで警察につかまって、警察で大暴れをするから奥さんの所へ電話をかけてきた。そん時にご主人を見て、今日は楽しかったおう、ち言うたげな。もう、あなたばっかりはいつもこげな、と言うふうな心の状態じゃないんです。一日飲んでグデングデンになる程、飲んで楽しかっただろうと、いっしょに自分も楽しいごたるふうじゃん。そしたら。もう大虎が猫になったというて、警察の方達がたまがったそうです。そいからおとなしなってから、奥さんといっしょに帰られた、という。そん時のいわゆる受け方、心の状態ですよね。おかげというものは。 心であんたばっかりは、ち、言うとって、そのまあ、警察の手前にすんまっせん、ばかりいうたぶんじゃいかんけどね。もう、本当に今日はお父さん楽しかったでしょう、ち言うてそれこそ虎が猫になったといって警察官がたまげるような心の状態、心の使い方なんですよ。ですから、そういう事を苦労とか難儀とか修業とか思うとらんのです。そこには一生、一心。その一生一心の置き所というものがです、どこに置いてあるか、地言うと、私にかかわりのある一切衆生が助かる事ん為にある。とてもお道の教師でも勝たん。ある教会の先生ち言う方が御参拝なっとられましたが、昨日聞かせて頂いたんですけども、もう教会をもたれて長年になるんだけれども、信者が全然出けない、という方だったそううがね。お道の教師になってもそういうような方もあるわけね。そういう中に奈良、難儀と難儀をその踏んまえながらでも、あれだけのお祭りの芯になれれると言うこと。その芯はどこにあったかというと、一生私にかかわりある人達が助かる事のための修業であるなら、いといません。というか、修業を修業と感じんですむほどしの内容が出けていかれておる、ということに、もうただ、ただ敬服するばっかりです。そしてなら、合楽へ向かって参ります時にです、前を走ってるトラックの後にこう書いてある。大輝と言う何か建設会社か なんかの、大きく輝くと書いてある。本当、すばらしいこと。もう神様がそこにものを言うておられるのを聞く思いで、お礼参拝が出来たというております。お互い、いわゆる限りないおかげの頂ける合楽理念。それを只、私の一心一家の繁栄の為に合楽理念が行じられたんでは勿体無いでしょうね。自分の周辺に大きな輝きが起こって来るようなおかげの頂ける為に、限りなき合楽理念を皆さんが勉強なさるようになったら、それこそ、この方が祈る所、天地金乃神と一心といわれる。我心に神が御座るから、一心を立てればおかげになるのじゃ。成るほど自分の一心を立てて、一生懸命お願いをする。おかげを頂くという。そこからです。我心、けっきょく、祈るところは、天地金乃神と一心。天地人一如の世界に住まわせて頂くようなおかげの為に合楽理念が行じられたら合楽理念が生きて来る。どうぞ、神の比礼を輝かして下さい、という祈りを日々しておるのですから、その祈りが嘘でなくて、本当な事になっていかなければならないと言うことですよね。
              「どうぞ。」